先日、妻の父(私にとって義父)が70代で亡くなった。初めて義父に会ったのは2002年のことで、今からちょうど20年前にあたる。今回は義父の死に際して、20年という期間は人の状況が変わるのに十分な時間であると実感したので、そのことについて書いてみようと思う。
義父に初めて会った時のことは今でもよく覚えている。妻と付き合うことになってから度々妻を外泊させていたものだから一度顔を出しておいた方が良いだろうと判断し、妻の実家に赴いたのである。2階の広間に通され、机を挟んで義父と向かい合った。確か自分は名前と職業と住んでる場所なんかを簡単に説明したんだと思う。義父は特に質問するでもなく、すぐに1階のリビングへと戻っていった。おそらく義父は何かを言いたかったというよりは、単に娘と付き合ってる奴がどういう奴なのかを知りたかっただけなんだろうと思う。ちなみにこのときに義父と向かい合った広間は、今ではうちの家族が妻の実家に行ったときに布団を敷いて寝ている場所である。時が経てば場所の役割も変わる。
当時、義父は50代半ばで、もちろんまだ現役で仕事をしていたし、その3年後に我々が結婚するときも仕事をしていた。つまり、私が始めて義父に会った頃は、義父にとってはまだ死ぬような年齢ではなかったのである。
それから20年ほどが経過したある日(ちょうど亡くなる半年ほど前)、末期のガンが見つかり、あっという間に亡くなってしまった。一般的に人間というものは、75歳ぐらいになると急激に亡くなる人が増えてくる。そして例にもれず義父も70代半ばで亡くなった。私が義父と初めて会ってから「たったの」20年である。20年前には、自分の娘が交際相手を家に連れてきて、自分自身は現役で仕事をしていた。つまり日常に死は全く垣間見えなかったし、死ぬことが全くと言っていいほどリアルではなかった。なのに、たったの20年で実際に亡くなってしまったのだ。
たとえば、私の年齢が義父に初めて会った50代半ば(あと少しだ)だとして、自分より20歳ほど年下の人を想像してみる。私が55歳になったら、年下さんは35歳である。55歳も35歳も等しく日常生活において現役だし、趣味や移動についてもほぼ問題なく現役である。つまり、55歳も35歳も、元気という点ではほぼ同じである。
さて、ここから20年の時間が経過するとどうなるか。自分は75歳になり、年下さんは55歳になる。自分には死がヒタヒタと近づいてくる音がするし、なんなら義父のように実際に亡くなってしまう可能性も高くなる。しかし、年下さんは55歳で、あらゆる面においてまだ現役なのである。何を当たり前のことを言っているんだと言われそうだが、私が感じたのは、20年たつとガラリと状況が変わって、あらゆることで現役だったのものが、一気に死のエリアに突入する。このあまりにも当たり前だけど、残酷な、いや残酷でもない、本当に当たり前としかいいようのない事実が、義父の死をきっかけに私に突きつけられた。
しかも恐ろしいことに、20年の歳月はあらゆることを変化させ、あっという間に過ぎ去る。なぜなら私が義父と机を挟んで対峙してから今日に至るまでが20年なのである。この期間、体感では本当にあっという間だった。光陰矢のごとし。おそらく私と同年代かそれよりも上の人にとっては、20年という歳月があまりにも速く、そしてあっけなく過ぎることに賛同してもらえると思う。
さらにこんなことも考える。20年は何かをするには十分な長さだが、ぼーっとしてると本当にあっという間である。私の場合、この20年で何をしたのか振り返ると、家族的なことでいうと結婚して子どもができた。趣味的なことでいうと、バンド始めてバンド辞めて、アニメや漫画を見て、イラストを描き始めた。仕事的なことでいうと、何回か転職して、仕事が嫌だ帰りたいと言い続けてきた。全体的に中途半端である。20年かけて中途半端で主だった成果がない。家庭を持ち子供を育てている時点で立派な成果と見ることもできるが、私が言う成果は、もっと個人的または社会的で比較的大きな金銭を生むものである。
そうなると次に想像してしまうのが、今後の20年である。この20年で主だった成果がないのに、体がさらに弱くなる次の20年で一体どれほどの成果を残せるだろうか。20年後に死が近づいたときに、いい人生だったと言えるような気持ちになるだろうか。そして次の20年は、体と頭が現役でいられる最後の20年になるかもしれない。願わくば良い方への変化を起こしたいところである。
今回、義父の死を通じて、20年という期間は人の状況が変わるのに十分な時間だなと実感した。自分の人生の残り時間は有限。実りある人生を過ごすために、これを読んで同じような気持ちになった人、共に頑張りましょう。
※なお、義父は岐阜出身です。(最後にどうしても言いたかった)